
平成2年10月16日、長男「徹」が誕生しました。
初めての赤ちゃん、なにもかも初めてのコトばかりで
わたしは親元に里帰りして、その土地の産婦人科で出産しました。
産まれてきたばかりの徹は、直には泣かなくて
酸素が不十分だったせいか、膚の色が紫色(チアノーゼ)で
へその尾が首に巻きついていました。
ほどなく処置をしていくうちに産声を上げ、顔色もよくなってきましたが
彼は、すでに病気なのでした。
この時点では分からなかったのですが、藍と同じ大理石骨病でした。
なぜかあまりにもミルクを飲むのがヘタだったのです。
飲んでいても直に疲れて寝てしまうし、飲ませすぎると吐いていました。
だから常にお腹を空かせて、機嫌が悪かったし、
寝ている時間も短くて、とても敏感で、デリケートなガラスのような赤ちゃんでした。
それでも見た感じはとてもまるまると太っていて愛らしく、
大きな声で泣いているので、気にはしていなかったのです。
退院して実家で徹のお世話を母としていたのですが、
おっぱいが張ってくるのに徹は飲まない、
仕方ないので、搾乳して温めて飲ませます。だけど飲めない
なんとか必要最低限を必死で飲ませて、しばらくすると吐いてしまう
そして機嫌があまりよくないので、私も母もへとへとでした。
でも、初めてのことですから、緊張が伝わって徹も落ち着かないのよ、と
みんなで納得しつつ、励ましあってお世話をしていたのですが。。
1ヶ月たっても、目が合わないのです(普通は2週目くらいから反応があります)
そして、体重が100gしか増えていなかったのでした(平均的には400gは増えます)
なんか変だ、なにか違うような気がする、と言い始めたのは母です。
そして小児科に訪れるきっかけとなったのは、便に血液が混じっていたのでした。
ほんのほんの少しだったのですが、あってはならないことだったのです。
直に小児科で血液検査をしてみると、明らかに異常、
血小板の数が極端に少なかったのです。脾臓も腫れていました。
田舎の小規模な病院でしたがB病院の系列でしたので、
その日のうちに紹介状を書いて頂いて、B病院に緊急入院しました。
大あわてで入院したのですが、すぐには病名を断定できませんでした。
血液データは異常なのですが、どこにも腫瘍もないし、
見えるところでは、とても元気そうな赤ちゃんだったのです。
だけどレントゲン写真を撮って見て、病気は確定しました。
骨の骨髄の部分が既に埋まっていて、真っ白な大理石骨病だったのです。
聞いたことのない病名、そして、未来が見えない難病と聞かされました。
大きく育たない、知的障害がでてくる、そして、
有効な治療方法として骨髄移植があるが、ドナーはおそらく見つからない
症例があまりにも少なくて、治療も模索しつつ進めるしかない・・・
経過を見守るしかなかったのです。
私はこの話を聴いても、なにひとつピンときませんでした。
それはあまりにも非現実的で、悲劇的で、実感として何一つ感じるものはなく
そして、徹がどうなるのか、などということなど、想像することさえできない、
まだ新米の、ママという自覚すらない、幼い母だったのです。
愛する人の死、というものに直面したこともなく
苦労らしき苦労の何一つしらないお嬢そだちのわたしは、
すごい病気の赤ちゃんなんだなぁ、くらいにしか感じておらず
この先起こる悲しい結末すら想像することもなく楽天的な考えのままに
長期入院生活を始めました。
主治医の先生との懇談もわたしはぼんやりしていただけなので、
母が話そうとすると、先生は叱ってくださいました。
「おかあさんの赤ちゃんです、おばあちゃんは黙っていてください」
今まで全てを母任せだったわたしは、このとき初めて自分に目が覚めたというのでしょうか
「おかあさん」に、ならなくては・・・!と思ったのです。
恥ずかしい話、それまではほとんど自覚がなかったのです。
そのくらい、精神的にも人間的にも幼かったのです。
まだ産後間もないし、たよりないから私の側に付いてくれようとした母に
付き添いは一人で十分だからと、母を説得して
「おかあさん」になる準備を私のなかでし始めました。
徹はあまりにも小さくて儚くて、弱々しくて
そして、かわいくて愛おしくて、私を求めて泣いているのです。
私は今までどうしてなにも考えてこなかったのだろう、と思いました。
どうして今まで、何もかも人に頼りきりだったのだろう・・・・
こんな他力本願な私をなんとかしてくださる為に
もしかしたら神様が病気の赤ちゃんを私に遣わせて下さったのかもしれない。
神様から私への贈り物なのだ、きっと・・・
そう思えて、なりませんでした。
入院生活も慣れて、なんとか日々のリズムが掴めてきたころでしょうか、
初めて徹が発熱しました。
感染値が跳ね上がり、病棟のICUに入って、点滴と抗生剤を投与されました。
初めてのことにおろおろした私は、やはり母に助けを求めてしまいました。
なかなかすぐには強くはなれません。熱が出たくらいで・・・
情けないのですが、こんな弱い母親だったのです。
幸いすぐに抗生剤のききめが現れて、熱も下がり感染も落ち着いたのですが、
どうしていいかわからない、自分がとても情けなくて嫌でした。
無知は罪です。特に子供に対しての無知と、あまりにも幼くて母になりきれない母は・・・
そう、自分で自分を責めながら、日増しに機嫌が悪くなり泣きつづける徹を
なすすべもなく、ただ抱き続けました。
病気の症状も日増しに悪くなっていってたのだと思います。
当時は今ほど医師もオープンに病状や今後のことなどを詳しく話してはくださらず、
また、そのことを聞いてみるという発想すらもたなかった私は
泣き続け、機嫌の悪い徹を、抱くことで自分を納得させていたのだと思います。
そんな中、大腿部が急に腫れあがり、火がついたように泣き始めた徹です。
あまりにおかしいので、レントゲン写真を撮って見ると、
案の定、骨折していました。
大理石骨病は骨が折れやすいのです。
固定され、天井から足を吊るされて、ミルクもろくに飲めない体勢になってしまい、
寝ている時以外は常に泣き続け、なんという赤ちゃんなのでしょう。
私も抱くことができなくなって、途方に暮れました。
側にいてあげること、手を握り、話しかけてあげることしかできない。
ずっと、子守り歌を歌い続けていたような気がします。
これから徹はどうなるのか、想像すらできず、
ただ、側にいて、声をかけて、手をにぎり、
ほんのわずかのミルクを注射器で口に流し込んであげました。
このころからあまりにもほ乳量が減ってきたので、
マーゲンチューブを挿入せざるを得なくなりました。
そして、骨折が治った頃には、ほとんど自力でミルクの飲めない徹がいました。
そのうえ、直に感染を繰り返すのでした。
おそらく白血球もこのころから減少し始めて、抵抗力も落ちてきていたのでしょうか。
遂に院内感染すると恐ろしいといわれる、名前は忘れましたが
今でいうMRSAのようなものだと思います、に感染して、
隔離病棟の個室に移されました。
そして、いつおわるのか見当もつかない、長い入院生活が続きます。
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