この頃の私といえば、すでに3ヶ月を経過した入院生活に慣れてしまい、
徹がどのようなひどい状態に、日々進んでいるのか、何も感じず
そのままを受け入れ、泣いていてもそれが日常ですから特に気にもせず
何も考えず、ただ、淡々と徹の付き添いのお世話をしながら、
何も希望も持たず、何も望まず、ただ徹の側にいました。
不思議な自分、この先のことを考えるわけでもなく、そして、
なんとなくいい方向に向かわないことを感じながらも、何もせず
あの当時の心理状態は今思い出しても不思議です。
心配してお見舞いにきてくださる方や、友人にも、
なぜか気を使って洗いざらい彼の今の状態を事細かに説明して、
勿論、来てくださった方が聴いたとしてどうすることもできないというのに、
時には冗談のように軽く話つづける、異常な自分がいました。
そして、この状態を決して不幸と、落ち込むわけでもなく
ただ、淡々と孤独な個室でテレビを見たりゲームをしたりしながら
時間を潰す、これが、一体何日続いたのでしょうか・・・。
個室のいて隔離されながらも、時には感染症をおこします。
そして点滴につながれたまま、正常値に戻るまでが長いことといったら・・
もはや白血球の数も減少しつつあったのだと思います。
様々な種類の抗生剤を取り替えたり、加えたりしながら、
1ヶ月くらいかかってやっと炎症反応が消えたと喜んでいても、
その直後の血液検査では、もう別の感染を引き起こしていたりで、
徹の点滴が外れていることがだんだんと少なくなってきました。
それなのに、何故かもはやそれが当たり前となって、なにも感じない自分
徹は起きている時は、いつだって泣いていたというのに。。。
そんな果てしない日々が続く最中、珍しくドクターが明るい笑顔で言ってくださいました。
「徹君、今とても状態が良いのですけど、外泊してみますか?」
思っても見なかった言葉にわたしは小躍りしつつ外泊準備をすすめました。
今思えば、ドクターが余命幾許か知らない徹との家族のささやかな想い出つくりのために
準備してくださったセオリーだったのかもしれませんが、
私たちは彼が生まれて初めての楽しい計画に胸を踊らせました。
私たちの住んでいる当時の社宅から、病院までの距離はすくなくても2時間
疲れないかな、大丈夫かな?興奮しないかな?と、心配しながら
はらはらしながら連れて帰りました。
徹が生まれて初めて、
家族三人が揃って自分たちの家に戻れたのはこのときが始めてなのでした。
徹を寝かせる場所に悩み、そして、彼のミルクを注入するシリンジを
ぶら下げる場所に悩み、そして、何も赤ちゃんグッズが家に無いことに戸惑い、
バタバタと一泊二日の外泊は忙しく、それでも楽しく過ぎていきました。
産まれて初めて、家族三人で川の字になって寝るのいう夢もやっと叶い
明日目が覚めたら、すぐ病院に戻る準備をしなければいけないにもかかわらず
つかの間の、家族ごっこのような、しあわせな時を過ごすことができました。
私たち夫婦は普段から、そうまともに話すこともあまりないのですが
このときばかりはしんみりと、素直に「一日だけでも帰れてよかったね」と
言葉を交わしあいました。
なんとなく、これが最初で最後の家族水入らずで
もう、次は無いのだと、うすうす、考えたくもないけれど
なんとなく、分かっていたような気がします。
そして、その次の朝、普通に旅行に行くように病院へ戻る準備をして、
無事外泊できた徹を大事に大切に抱きながら、
涙も、言葉もなく、普通に病院に戻りました。
そして、徹とわたしは病院で、パパはたったひとりで社宅で
離れ離れの生活がまた、果てしなく続くのです。
もともと大理石骨病は骨が変形していくこともあって気道も狭く変化していきました。
当然、息をすることが大変苦しくなります。
徹も必要な酸素を十分に取り入れることが困難となり、
酸素テントのなかで、生きていかなければならなくなりました。
ベッドの大半を酸素テントで覆い、その中を、小さいままの徹が寝かされていました。
すでに一歳がくるというのに、首が座らないばかりか、
目も見えていません。耳もおそらく聞えなくなっていたでしょう。
勿論、この世の楽しいこと、嬉しいこと、しあわせなこと、希望、
そんなものに見放されたような彼は、
それでも一生懸命、息をして、
硬直してほとんど動かなくなった手足を、ぴくりとも動かそうとせず、
ときたま彼の意志とは別におこる、痙攣や、筋肉の緊張で体を震わせて
ほとんど声ならぬ小さな声になった、か細い声で泣き続けていました。
せめて息くらい楽にさせてあげたいのに、それさえも許してもらえないのか
気道確保するために、後ろに反り気味の体勢で寝かされて
泣きたくとも、口も上手く開かないようになり、
見えていない目を見開き、涙だけはいつも流れているのでした。
耳も聞えていないので、きっと話しかけてもわたしの声さえ届かない。
ただ、感覚だけは残っているだろうと、信じて
(実際、採血などで注射針を刺すと、ピクンと反応してたので)
常に添い寝をして、手をにぎり、頭をなでて、体をさすってあげることだけしか、
わたしにできることって無かったのでした。
小さいまま大きくなれず、一歳になっても体重は4600gから増えませんでした。
そして脾臓、肝臓が異常に腫れあがり、お腹が膨れて、
動かせない手足は筋肉が落ちてか細く、
頭は小さいまま、顔付きだけは一歳の男の子に変わってきました。
それでも愛おしくてかわいいわが子です。
かけがえのない大切なわたしたちの子供だったのです。
不思議とだれをうらむとかそういう負の気持には支配されなかった。
ありのままを受け入れて、そんな徹とともに過ごす
一週間に一度、パパが会いに来てくれる。
それが私たちの生活スタイルで、たとえ酸素テントにいっしょに入って寝ていても
不思議なことに幸せだったのでした。
ママになり切れなかったわたしを、徹がちゃんとママにしてくれて
そしてわたしが徹を必要としていて、側にいつもいれることで満たされていて
わたし自身は幸福だった。
でも徹は、生きていくこと、そのものが苦痛だったのに
それには、気づいてやれなかった。
いえ、たとえわかっていたとしても、何がしてやれたでしょう。
徹のために泣いて過ごすのでしょうか?
私たちは不幸だと決めつけて、全てを怨んで過ごせばよいのでしょうか?
そうしたくない、そんなのはイヤだと強く思ったわけではないのですが、
どのような状況になっても、私自身は不幸だとはどうしても思えなかった。
そんな母親を持つ彼は、いったいどんな感情で母親を感じていたのでしょうか。
彼の心は分からないけれど、当時自分は、私自身が笑って過ごすことが
彼を唯一安心させてあげられるひとつのことだと信じていました。
他に、彼に何をしてあげられたのでしょうか
それを考えるには、わたしはあまりにも未熟な人間でした。
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