◆第2章 最初で最後の彼の奇跡


息を吸い込めていないようです


10年以上も前のことなので、日常的なことはほとんど覚えていないのですが
徹の最期に近づく瞬間のことはいまでも鮮明に思い出せるのです。
あの日の夜も、いつもと変わりなく、
ぼおっとしている徹に時々声をかけながら、時間を潰していました。
ふと、気がつくと、何かいつもと違う、忙しい空気が
徹のまわりを、ピンと、張り詰めていました。
あれ?と思い、徹の顔をのぞきこむと、表情が急いでいるのです。
今まで、泣いた顔をしても、怒った顔をしていても、
こんな切羽詰まった顔をしていたことはなかった。
息が、思い切り吸い込めなくなっていたのです。
肺の筋肉を振り絞るようにして、吸い込むのですが、
どう見ても、五回吸い込むうちの、四回は上手く空気を取り込めていない
吸い込んでいる音がしないのです!
そして徹は苦しそうに目を見開き、どうすることのない思いを表現するすべをもたず、
誰かがこの苦しみに気がつくのを、ひたすら吸えない息を必死でしながら
待っていたのでしょうか?それともただ必死に、息をしようと頑張っていたのか

息を吸い込めていない徹を半信半疑で、
一時的なものかといつものように楽観視する自分もいた
でも、少しまっても、一向にいつもの徹に戻らない、
これは、変だ?どうかしたのかな?そしてナースコールを押しました。

すぐさま、看護士さんとドクターが駆けつけてくださり、
聴診器で肺の音を聴くなり、事態はバタバタと急展開し始めました。
酸素テントの中の酸素濃度を、まず濃くしたのですが、
それだけではどうにもならない緊急な事態になっていました。
どうやら、気道確保する体位だけでは、酸素を取り込むことが困難な状況でした。
肺炎にかかってしまったのです。

そして、だんだん呼吸が弱くなりつつある徹です。
このままでは命が危ないので、挿管することになりました。
挿管とは、口から直接気道へ管を通して肺につなげて、
確実に酸素を肺に供給できるようにすることです。
深夜、処置室で挿管してもらっている間、
ドクターは初めて徹の命について口に出しました。
今の状態だと、どうなるかは全くわからない、命が、
命が、危ないかもしれない、と、言われました。

不思議と驚かなかった、
覚悟ができていたとは思わないけれど、
くるべき時が来たのかな?と、そう自然に受け止めて、パパに電話をしました。
でも、まだ心の中では楽観視していて、大丈夫、今までだって、
たくさん感染して、肺炎になっても、ちゃんと良くなったし、
今回だってそう、挿管したけど、またきっと良くなる
そう、信じている自分も共存していました。

徹はどうなのだろう、とりあえず息が苦しいのをなんとかしてやりたい
でも、その次は?どうなのだろう?挿管されてどうなのだろう・・・。

処置室から戻った徹はすでに呼吸が弱々しくて
補助するために人工呼吸器をも、取付けられて、
機械が送り出してくれる酸素の量に合わせて、胸を上下させていました。
それよりも、もっとショックだったのが、徹の表情でした。
挿管されるまえは、息が苦しくても辛くても、
彼の彼なりの意識が感じられる、目の光があったのですが、
病室に戻ってきた彼には、目に光はなく、いえ、目を見開く気力もなく
全てを諦めた表情で、ただそのまま横たわっているだけなのでした。
ほおは青く、げっそりとやつれて、力なく、泣くこともなく
機械に息を助けてもらって、生かされていた。

私は胸がつまり、ここで初めて徹は大変なところに来ているのだと分かりました。
いつものように、話しかけようとしても、声が上ずり、
いつものように、からだに触れたくても、手が震えるのです。
深夜だったにもかかわらず駆けつけてくれたパパも絶句しました。
この時点では、まだ脈拍も心拍数も乱れてはいませんでしたが
この状態が長く続くとは、思えなかったのです。



一度目は私たちのために・・・・


悪いながらも状態はとりあえず安定したので、パパは家に戻りました。
長い夜。寒くて寂しくて、もう少しで春がくるというのに、
徹の表情からは希望のかけらさえ読み取れない、絶望と死の影がありました。
目を開くことなく、機械に息を助けられて、胸を上下させ、
いつも緊張から硬直して手足を震わせていたのに、その動きさえもなく、
だらりと重さをそのままに、四肢を投げ出していました。
その状態で一日過ごし、そして異変が来ました。

突然脈拍が下がり始めたのです。
100を保っていた脈が、ふと気がつくと、80になり、あわてている間に60になり、
ドクターや看護士さんがバタバタと蘇生準備をはじめる間に
40、20、と、どんどん下がっていきました。
私はその間、ベッドの脇で徹の手を握り、何も言えずに呆然としていました。
気がつけばパルスデータがピーと機械音を発し、
脈が事切れたのを現す、一本線が表示されていました。
ドクターが何か看護士さんに指示を出し、何かルートから薬を打っている間
心臓マッサージが始まりました。
ドクターが徹の動くのを止めた心臓に刺激を与えている証しが、
パルスメータに、ピクン、ピクンと表示されていました。
そしてそれが規則正しくなり、ふっとマッサージを止めたと思ったら、
一度止まった心臓が再び動き始めていました。
そして、20、40、と、少しずつ増え始め、蘇生した瞬間、
徹はこの世のモノとは思えないほどの苦痛を抱えた表情で再び息を吹き返しました。
そうこうしているあいだにも、色々な薬剤を投入されて
なんとか持ちこたえる事が出来たのですが、
私はこの間、何も考えられず、励ましもせず、ただ側にいるだけでした。

徹は一度、死んでしまった。
でも、生き返ってくれた。
生き返るって、とても苦しそうだ。
つらそうだ。

目を開くこともなく再び息をし始めた徹を厭きることなく見つめていて
このことについて、ずっと考えていました。
生き返って来てくれた。
あまりにも突然だったので、覚悟も何もなかった私と、
このままでは死に目に会えないパパのために、
もう一度、徹はガンバって戻ってきてくれたのでしょうか?
でも、とてもつらそうでした。

全身状態を調べた結果、ドクターは、もうダメかもしれないので、
今から会わせたい人あれば、会わせてあげてくださいと、告知してくださいました。
私はパパと、私たちの両親を呼び、皆が揃うのを待ちました。

待っている間、信じられないことが起こったのです。

あれだけ苦しそうだった徹が、フッとやさしい顔をして、
いつもは痙攣して焦点の定まらない瞳を、まっすぐわたしの方に向け、
まるで微笑んでいるような、ほんとうにやさしい、やさしい顔をして、
楽に息をし始めたのです。
「どうしたの?気分がいいの?」
夢中でわたしは話しかけました。目は大きく見開いていて、
私の声が彼の耳に届いているような表情をして
笑ったことのない、彼の口元に、微笑みが浮かんだような気がしました。
「治ったのかな?良くなったのかな?」
頭をなでながら、彼に話しかけると、そのまま彼はまた、まぶたを閉じて
静かに、静かに眠り始めました。音もなく・・・。

パルスメータはまだ正常値で正確に動悸を刻んでいました。
眠った・・・楽そうになってよかった。そう、思いました。
今になって思うのですが、あれは徹が最後に私にみせてくれた思いやり。
言葉なんて勿論無かったのですが、徹の最後のプレゼント。
やさしい、あたたかいほんの少しの時間を、徹の想いを、気持ちを、
私は確かに受け取ったのです。

いままでなかなかママになり切れない未熟な私の、
私だけの赤ちゃんでいてくれて、ありがとう。
そばにいれて、私は本当に幸せだった。
ありがとう、
今度、お迎えがきたら、静かに逝かせてあげる。
もう、絶対に、苦しい思いはさせない。
今まで生かしてゴメン、私が未熟なせいで、苦しめてゴメン。
もう、私は大丈夫だから、逝ってもいいよ。

そしてドクターに伝えました。
「次がきたら、蘇生術はお断りします。」

そう伝えることが、私にできる最後の彼への愛情だと信じて






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